ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

戦乱の世の流れを変えた、明智光秀の足跡をたどる

福知山の街の写真

福知山城の天守閣から見下ろした街の様子。音無瀬橋や蛇ヶ端御藪(明智藪)も眺望できる。

 

 日本全国でさまざまな武将が覇権を争っていた戦国時代。天下取りの最有力候補と目されていた織田信長の功績は、この時代に思い入れのあるファンならだれもが知るところ。その側近でありながら、あの“本能寺の変”を起こした明智光秀について、みなさんはどのような印象をお持ちだろうか。日本の歴史上、重大なクーデターを引き起こしたことから、ヒール(悪役)のイメージが強い光秀。しかし、光秀が治めていた京都・福知山の地では城下町を開拓し、善政を布いた領主として慕われているなど、一般的なイメージとは真逆の評価を得ている。今回は、光秀ゆかりの福知山を歩き、彼の足跡をたどってみよう。

01福知山城

丹波の都市化の礎となった光秀の居城へ

勇壮な天守は、江戸時代の絵図や天守平面図をもとに1986年に復元された。

 

 光秀と福知山の繋がりは、織田信長の命を受けての天正3年(1575)の丹波攻めに端を発する。天正7年(1579)に丹波を平定した光秀は、中世に築かれた土豪の城・横山城を改築。この城を居城とし、城下町の整備を行った。

福知山城の写真

光秀直筆の書状などゆかりの品々を展示。

 

 明治時代の廃城令により明治4年(1871)に廃城、3年後に取り壊された福知山城だったが、昭和59年(1984)から再建に向けての会が発足し、昭和61年(1986)に大天守が復元。福知山の歴史を後世に伝える郷土資料館として新たに開館した。
 この資料館では甲冑や書状など光秀ゆかりの品を展示。敷地内の御霊神社に収められていた丹波攻めの際の書状や、光秀が信長軍の軍規を記した「明智光秀家中軍法」などは、信長の天下取りの戦渦に光秀がいかに活躍したかを伺い知れる貴重な資料だ。

福知山城内の写真

石垣は野面積といわれる、自然石を巧みにもちいた積み方がなされている。光秀以後にも増築が行われ、写真の石垣の中央部分にその跡が見てとれる

石垣の写真

 福知山城の大きな特徴として注目したいのが石垣の造形。墓碑塔などを転用石として石垣の部材として使用している。また、一見雑に思われる石の積み方も実は野面積みという技法を用いたもので、光秀が城を管理した天正年間から400年もの長きに渡ってその姿を保っている。

 歴史に大きく名を残しながらも、その功績の多くが伝承だけで伝えられているなど謎の多い光秀。天正の様式を残す天守から町を見下ろし、初代城主と心を重ねてみるのも福知山散策の醍醐味だ。

02ゆらのガーデン

歴史を学んだ後は、美食を堪能

ゆらのガーデンの写真

バリエーション豊かな飲食店が並ぶゆらのガーデン。食事の後は中庭でのんびり過ごすのもおすすめ

 

福知山城で光秀や地域の歴史について学んだら、目と鼻の先にある「ゆらのガーデン」へ。緑豊かな芝生を囲むようにカフェや焼肉、日本料理の店などが集まった複合施設で、美食とくつろぎのひとときを過ごすことができる。

 

03城下町探索

城下町で光秀ゆかりのスポットを探訪

広小路の写真

 江戸時代に防火のために拡幅された広小路。現在、電線の地中化など風情ある町並みづくりが進められている。

御霊神社の拝殿の写真

御霊神社の拝殿。境内には7つの社殿がある。

 

 ゆらのガーデンでお腹を満たしたら、かつて光秀も闊歩したであろう城下町に足を向けてみよう。古きよき雰囲気が残る町のランドマーク的存在が、宝永2年(1705)に創建された御霊神社(ごりょうじんじゃ)。クーデターの首謀者というイメージとは真逆な光秀像を垣間見ることができるスポットだ。 
 丹波の地を統治し、宅地税の一種である地子銭を免除するなど善政を布いたことで領民から慕われた光秀は、本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗北。坂本城を目指して落ち延びる途中で落ち武者狩りで深手を負い落命する。この神社は「災害は非業の死を遂げた人物の怨霊による仕業であり、その恨みを鎮めるためその霊を祀る」という御霊(ごりょう)信仰のもと、町の発展に貢献した光秀を、主祭神である宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)とともに祀っている。なお、かつては光秀直筆の古文書をご神体として収められていた。

御霊神社の写真

御霊神社の本殿は写真右側奥の建物。市の有形文化財である光秀の文書3通が収められている

 

御霊神社から階段を下り御霊公園の入口まで進むと、「福知山踊り像」なるブロンズ像が現れる。これは毎年夏開催の「福知山ドッコイセまつり」で踊られる福知山音頭をモチーフにしたもの。その福知山音頭も光秀が福知山城の修復を行った際に人夫たちが歌っていたものに起源をもつといわれ、歌詞の一部に「明智光秀丹波をひろめ」というフレーズがあることから、この地での光秀人気が伺い知れる。

福知山踊り像の写真

御陵公園の入口に設置された福知山踊り像。光秀ファンならずとも看板の踊りを覚えて夏祭りに参加してみては。

04福知山市治水記念館

水害の記憶を語り継ぐ福知山市治水記念館

治水記念館の写真

福知山をたびたび襲ってきた水害の恐ろしさを学ぶことができる福知山市治水記念館は明治期に建てられた古民家を改修したもの

 

 福知山の町を流れる由良川は人々の暮らしに恵みをもたらす一方、台風が起こるたびに水害を引き起こすなど、古の時代から町に大きなダメージを与えてきた。光秀が福知山を平定して城下町を築いた際にも、堤防を整備したなど伝えられているが、明治29年(1896)と明治40年(1907)には町が壊滅するほどの甚大な被害に見舞われている。福知山市治水記念館では、昭和28年(1953)に起こった台風13号による水害(ニ十八水)から50年を経過したことを記念し、災害の記憶を後世に語り継ぐべく開館された。

 館内では水害の脅威を記したパネルや映像の展示のほか、避難時の荷揚げ用滑車など、水害に対する備えも設置されており、かつての水害を知る語り部からの貴重な話を聞くこともできる。光秀をはじめ、先人たちが生きた時代の苦労に思いを馳せよう。

由良川と明智藪の写真

由良川の一角にある明智藪(写真右側)。光秀の姓を冠したこの藪は、かつては「蛇ヶ端(じゃがはな)御藪」と呼ばれたが、昭和期の研究で光秀が水害対策で造営したものではとの伝承もあり、明智藪の名で広く知られることとなった。

 

 光秀が福知山を統治したのはわずか3年という短期間であったが、この地・福知山では今も名君として語り継がれている。町の開拓者であると同時に聡明な戦略家、正室の煕子(ひろこ)以外に側室を置かなかった一途な男…などなど、さまざまな側面、そして謎に満ちた生涯は、人々のロマン心を駆り立てるに余りある。光秀の足跡がそこかしこに残る福知山を訪れれば、そんな謎を解き明かすヒントがつかめるかもしれない。

<DATA>

福知山城天守閣

電話:0773-23-9564

住所:福知山市字内記5

料金:大人330円、こども110円

時間:9~17時(入館は16時30分まで)

休み:火曜、12/28~31、1/4~6

駐車場:70台(ゆらのガーデンと共通です)

 

ゆらのガーデン

電話:0773-23-0266

住所:福知山市字堀6

時間:店舗により異なる

休み:店舗により異なる

駐車場:70台(福知山城と共通です)

 

御霊神社

電話:0773-22-2255

住所:福知山市西中ノ町238

料金:拝観無料

時間:拝観自由

駐車場:なし(周辺利用)

 

福知山市治水記念館

電話:0773-22-4200

住所:福知山市下柳39

料金:無料

時間:9時~17時(入館は16時30分まで)

休日:火曜(祝日の場合は開館、翌日休)

駐車場:8台