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〒620-0321
京都府福知山市
大江町仏性寺909
TEL.0773-56-1996
FAX.0773-56-1996
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昔から、鬼は人間の禍福(かふく)【わざわいとしあわせ】を支配する祖霊−祀られざる祖霊と考えられていました。
大昔、人々の生活は本当に大変なものでした。自然の猛威をはじめ、いろいろな不幸や不運が続いたとき人々は、それを何ものかのしわざと考え、自分たちの生活を支配する「魔なるもの」の存在を信じたとしても無理もありません。こうした「魔なるもの」が鬼の原像であったのではないかと考えられています。
鬼は日本独特のものですが、日本の鬼に当たる「魔なるもの」は洋の東西を問わずどこの国にもいます。
鬼は支配者によってつくられた狂暴怪異なものというイメージが強く、悪の象徴と捉えられていますが、神として祀られる鬼は全国各地にありますし、民衆に福をもたらす鬼もたくさんいます。
「日本の鬼の交流博物館」では、いろいろな鬼を紹介し「鬼とは何か」にせまりたいと思ってます。

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古鬼面(収集地:九州山)


トケビ(朝鮮の善鬼)
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「鬼」が神として祀られている「鬼神社」は全国で4つあります。青森県弘前市の「鬼神社」、埼玉県嵐山町の「鬼鎮神社」、大分市の天満社境内の「鬼神社」、福岡県添田町にある玉屋神社境内の「鬼神社」です。
鬼が神として祀られていることに奇異な感じをもたれるかもしれませんが、鬼は本来死者の魂をさします。それに加えて人々が抱く、人間の知恵や力を越えたものへのおそれやあこがれの気持ちと結びつき、鬼を祖霊(祖先の霊)と考えるようになり、人々の生活に禍いや福をもたらすものと考えるようになったのです。日本の鬼に、極めて大きな影響を与えたインドの鬼=プレーターは、祖霊をさしているといわれています。鬼はもともと姿なきものであり、神と表裏をなすものであったと考えられています。

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鬼神社(弘前市)

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私たちは「鬼」というとすぐ人を食うこわい鬼を連想しますが、民衆の暮らしの中に息づいている鬼は、何となく優しさや親しみを感じさせてくれます。日本民族の基層には「鬼」=「神」=「祖霊」という心性が深く関わっているのでしょう。 |


なまはげ


アマメハギ

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暮らしの中の鬼と関わって、今も全国各地に残されている年中行事に、生き生きとした鬼が登場しています。
最も著名なものは「節分の鬼」で、今も各地で多彩な行事が行われていますが、節分というのは、本来季節の変わり目のこと。立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分となりますが、豊穣を祈る農耕の儀礼と結びつき、冬から春になる時を1年の変わり目と考えて、立春の前日が重視されるようになったといわれています。
節分以外にも、正月や大晦日に行われる各地のいろいろな「鬼やらい」=「ナマハゲ」「アマメハギ」「ナモミ」「バンナイ」など、今では貴重な民俗芸能となっています。
端午の節句の行事も、かつては鬼が侵入しないように、いろいろなものをおいて「鬼の目玉」をつきさし、悪魔除けとしたことに始まっています。6月1日を「むけ節供」といって、正月の鏡餅を干して、かちかちになったもの(=鬼の骨)を、この日に食べるような風習を残すところもみられます。

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民俗芸能に登場する鬼には、2通りの性格づけがされています。
一つは人々が敬い親しむ「善鬼」です。奥三河花祭りの山見鬼、榊鬼、朝鬼などはその典型です。この鬼は反閇(へんばい)という所作をします。反閇とは片足を高く上げ、力強くふみ下ろす動作のこと。これによって地中にひそむ悪霊などが鎮められるとされており、反閇という所作をみせる鬼は善鬼なのです。
一方の鬼は「邪悪な鬼」であり、人々に害をもたらすもの。したがって、人々にとってはこの鬼を降福退散させなければ、自分たちの幸せはやってこないと考えています。

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 奥三河花祭り
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鬼の芸は、敗者のあわれを浮き彫りにした芸能であるといわれています。
鬼が日本の行事に出現するのは8世紀初め。慶雲3年(706)に全国に疫病が流行し、「儺」を行ったという記述が「続日本紀」にあります。「儺」とは「つつしむ」という意味をもつ字でこれが駆疫の意味ともなったものです。の意味ともなったものです。
10世紀に入ると、大晦日の恒例行事として1年の終わりにあたり、宮中から災厄を追放する、「追儺」と呼ばれる呪術的行事が行われるようになります。
寺院の行事として「鬼」や「追儺」が確認されるのは12世紀以降といわれていますが、仏教の発展とともに、寺社芸能化した鬼の芸能が広まり、今もいくつかの地域で残されています。仏教では、鬼を人間のさまざまな欲望の化身とみなしている点があります。
宮中行事から出発し、寺社では行事として定着した系統の、いわば除災型の鬼に対し、民衆の土俗生活と深く関わった来訪型の鬼の芸能も各地に残っています。ナマハゲはその代表例ですが、この系統の鬼の特色は人前に出現し人々の前で躍り、人々の家を訪ねて廻ります。人々はその出現をまち、恐れながらはやし、訪れた鬼をもてなします。祖霊をまつる習俗にふさわしい行事です。 |


日吉神楽団「大江山」

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能や狂言の成立した中世になると、鬼よりこわい武士の出現によって、鬼は魔王の地位を失います。
「大江山」の酒呑童子や「羅生門」の茨木童子も、いわば武勇讃美の恰好の標的とされてしまうのです。能の鬼といえば「般若」を連想しますが、能の鬼は「鬼畜物」「鬼退治物」「般若物」など多彩です。
鬼面の表情には、戦乱相次ぐ血なまぐさい世にあって、民衆たちの「心のおびえ」と、「救いを求める心情」が凝縮されています。能の鬼には、怪奇趣味ではなく、極限に追いつめられた人々の、人間的な絆の回復を求める哀切な祈りがこもっているのです。 |

しかみ

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「般若」とは「能」の鬼女ですが、それは中世の鬼の典型です。
三従の美徳が説かれた封建社会にあって、美しくありたいと願う女性が鬼となるということの中に、もっとも弱く、もっとも屈服せざるを得なかったこの時代の女性の心や苦悶の表情を読みとることができます。
般若は、そうした心の内面が、破壊にむかう相を形象化したものといわれますが、般若の面を凝視すると、鬼となりながら人間的な心をすてることのできない女の情念や、出口のなかった中世の民衆たちの心が、般若の姿をかりて哀切な叫びをあげているのではないかと思われます。

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鬼の行事として、もっともポピュラーなものが節分の鬼。今でも神社やお寺ばかりでなく、一般家庭でも「鬼は外、福は内」と大声をはりあげ豆まきが行われています。
節分の夜の「鬼は外……」の行事は、もともと疫鬼の追放を目的とした年中行事です。中国から伝わり、奈良時代から平安時代に宮中行事に取り入れられ、その後、仏教の追儺儀礼となり、民間にも広く流布するようになりました。 |
追儺(ついな)とは、疫病や災厄の発症をチミモウリョウの仕業として、それを鬼の形に具象し、場外へ追っ払う模擬動作のこと。中国より入った風習で、慶雲3年(706)にすでに宮廷の儀式として行われていますが、これは諸国に悪病が流行し、それを駆遂する呪術として行われたものといわれています。
豆まきについては、宇多天皇のとき、鞍馬山の奥、僧正谷にすんでいた鬼神が、都に乱入しようとしたので3石3斗の豆をいり、鬼の目つぶしをして災厄をのがれたのがはじまりと伝えられています。

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京都 吉田神社「節分祭」

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昔話の中でも、鬼は退治されるべき邪悪なものとして語られる場合が多くあります。
鬼退治の話として、1番よく知られている桃太郎。桃太郎の話の原型は、古代吉備王国(古代、備前、備中、備後地域にあった小国家)がヤマト国家に服属していく過程の温羅伝説とされています。百済の王子、温羅(うら)という鬼を、ヤマト国家から派遣された吉備津彦が討ったという話です。岡山では、吉備津彦=桃太郎として、町おこしに一役かっています。この温羅は、製鉄集団を連想させる伝説をとどめるなど、興味深い伝説で、大江山周辺に残る陸耳御笠(くがみみのみかさ)の伝説との類似点が多いのが特徴です。
私たちは子どものころ、桃太郎の話を聞きましたが、この桃太郎に退治された鬼が、一体どんな悪いことをしたのかは全くふれられておらず、頭から鬼は悪いものという前提があり、そのくせ桃太郎は鬼を退治して、どっさり、金銀さんご、宝物を持ち帰ります。鬼が何故こうした宝を持っているのかも、全く語られていません。一寸法師の鬼も打出の小槌という宝物を与え、一寸法師を一人前の男にするという恩寵を与えています。昔話に出てくる鬼が、害を与えると共に宝物も与えていることは、昔の人々が鬼とみられた人々との交流によって、富を入手していた事実を暗示しているのかもしれません。
鬼は、社会を活性化し、社会的存在としての人間の姿を浮き上がらせるものとして、人間にとって不可欠な存在だったのです。

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外国の仮面
精霊一死霊や祖霊に対する信仰、畏敬はどの民族にもあり、また今も保ち続けています。それら精霊には人間を守る善い霊もあれば、たたりや災厄をもたらす悪い霊もいます。
そうした素朴な土俗信仰のところへ、新しい大きな力をもった宗教が入ってくると、かつての精霊たちは、悪魔、悪霊とされ、新しい神に仕えるものに落とされてしまうのです。
鬼、悪魔(悪魔は人の心をまどわし修業を妨げるマーラーからきているといわれます)は、それぞれの地方の、民族、時代によってニュアンスを異にしますが、いずれにしても世界的秩序=コスモスからはみ出し、混沌(カオス)にひそむ超越的な力を表現している点では共通しています。

西洋の悪魔たち
日本の宗教は多神教で、八百万の神というようにいろいろな神が各地にまつられています。
それに対して、一神教であるキリスト教がいちはやく世界宗教として発展すると、それまでの神々(ローマ多神教信仰の神々)は、すべて異端視され、俗信の世界へと追いやられ、悪魔とされてしまいます。
ヨーロッパの代表的な悪魔たち…たとえば「サタン」「デーモン」「デビル」「ルシフェル」「リベアル」「ベルゼブル」などは、みなかつてはある地方で民衆に崇拝された神の一員でありました。たとえば「サタン」は、神の裁判所で罪人を告訴する天使でありましたし、「デーモン」はギリシャ人の守護霊、「デビル」はキリスト教に追われたヨーロッパの土着の農業神です。魔王の代名詞ともなっている「ベンゼブルン」は当時ユダヤの強敵であったペリシテ人の崇拝する神でありました。
このように、西洋の悪魔たちの生いたちを見るとき、日本の鬼の出現する背景との共通性がうかがえます。

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ランダ(インドネシアの鬼)

インドの鬼
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日本に瓦が伝わったのは飛鳥時代で、百済から仏教の伝来とともに瓦づくりの技術が伝えられたといわれています。
それぞれの時代相を反映して、鎌倉時代には実に豪華で堅実な瓦が、室町時代には繊細で美しい瓦が作られていますが、一般民衆の家に瓦が使用されるようになったのは江戸時代のはじめでした。当時瓦は高価なものでしたが、防火の面から徳川幕府が奨励し広く普及していきました。
ところで、鬼瓦は、はじめ「吻」(ふん)とか「棟端飾瓦」と呼ばれていたものと思われます。現在使用されている鬼瓦の中でも一番古いと思われるものは、奈良市新薬師寺本堂の棟の鬼面瓦で、すくなくとも千年はあの棟端に座っています。
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鎌倉時代に「ヲ二」と書かれた棟端飾瓦が登場し、はっきりと角をもった鬼の顔が刻みこまれ、鬼面瓦としての形が明確になってきます。鎌倉時代までは型造りでしたが、室町時代に入ると手造りにかわり、強さを感じさせる鬼から恐ろしい鬼に変わっていきます。江戸時代に入ると、一般民衆の家にも鬼面瓦が姿をみせますが、近隣の家を睨みつけるので敬遠され、願いごとを記す意味もあって鬼面でない鬼瓦−例えば火災よけのための水のかたち、家内円満の願いをこめた福の神の鬼瓦が飾られるようになってきます。
屋根に鬼瓦をのせているのは、世界の中でも日本だけに見られる風景です。どうして鬼瓦が屋根の棟にとりつけられることになったのか不思議なことですが、外部から侵入してくる目に見えない恐ろしい悪鬼、悪霊を退散させる、つまり「魔除け」のためにすえられたものとしか考えようがありません。
邪悪な鬼を退散させるために、いかめしい鬼の顔を彫った瓦を魔除けにすることは奇妙に感じられますが、昔の人々は鬼の中に二面の性格を見いだし、人間に危害を加える好ましくない側面と、人間の側に立って邪悪なものを追い払う好ましい側面を感じ取ってのではないでしょうか。それを人間生活に役立たせると考えていたようです。
いま日本には三十万個以上の鬼面瓦が屋根の上から私たちのくらしをみつめています。鬼瓦は最もポピュラーな鬼であり、強い守護神としての願いをこめた鬼です。

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