このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいのですが、これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路)の血原にきてここで匹女を殺しました。この戦いであたり一面が血の原となったのでここを血原と呼ぶようになったといわれています。陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきましたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げました。そこで日子坐王の軍勢は楯をならべ川を守りました。これが楯原、川守の地名の起こりです。陸耳御笠は由良川を下流へ敗走し、日子坐王はこのとき一艘の舟が川を下ってきたので、日子坐王はこの船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へきましたがここで見失ってしまいます。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占といい、この舟は楯原に祀りました。これが船戸神であるという内容です。
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 陸耳御笠が逃げ込んだ大江山(福知山市大江町より)
「丹後風土記残缺」とは、奈良時代に国別に編纂された他誌である「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを15世紀に僧智海が筆写したものといわれています。 |
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