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明智光秀が築いた城下町について

ページID:0001080 更新日:2018年12月7日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

福知山城(郷土資料館)

福知山城(郷土資料館)の画像福知山城は、天正8年(1580)ごろ、丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として新たに城を築いたのが始まりとされています。

以来、戦乱の時代、城主が交代する中、順次整備が進められ、慶長5年(1600)ごろに完成したようです。
明治時代のはじめに廃城令で取り壊され、石垣と銅門(あかがねもん)番所だけが残されていましたが、市民の瓦1枚運動などの熱意によって、3層4階の天守閣が、昭和61年(1986)11月に再建されました。
天守閣は、望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっています。
石垣は、築城当初の面影を残すもので、野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれる、自然石をそのまま用いた豪放なもので、福知山市の指定文化財となっています。
一見乱雑に見えますが、石材は奥に長く用いられて、強固な石垣が組み上げられています。
石垣内部に石塔類が使われるなど、安土城や二条城など織田信長にかかわるお城に共通する特徴を持っています。
深さ50m(城郭の本丸内湛水井としては日本一の深井戸)の「豊磐(とよいわ)の井」は、今も海抜30mの高さまで清らかな水をたたえています。
天守閣内部は郷土資料館として公開し、古代から近代にかけての、城や福知山にかかわる歴史資料を展示しています。
望楼からの城下の眺めは抜群です。


福知山城(郷土資料館)の通常運営については、こちら


大きな地図で見る<外部リンク>

周辺施設/佐藤太清記念美術館<外部リンク>

城下町のまちなみ

福知山は、江戸時代には城下町として、明治維新以降は紡績を基盤に商業都市として早くから再開発されてきました。
そのため、江戸時代の武家屋敷などはほとんど残っていませんが、明治から昭和初期にかけての町屋が軒を連ね、まち全体が町屋の博物館となっています。
特に、下柳・菱屋のまち並みは、福知山のまちなみの典型であり、明治から大正の風情が偲ばれる、落ちついたまちなみです。福知山の町屋は、2階の窓が虫籠窓と出格子の組み合わせが多いことが特徴となっています。

まち割り

まち割りの画像道路は、江戸時代の都市計画に基づく城下町の道路が、ほぼそのまま遺されています。
城下町の周縁部分には寺院が集められ、鋳物師町や呉服町などの地名に職人町の名残が残されています。
大正から昭和初期にかけて、旅館や料亭を中心に木造3階建ての建物が盛んに造られ、巧みな大工仕事や細工など、福知山のまちを特徴付ける建物となっています。

京口門

福知山城の下の陸橋を渡ったところに、江戸時代の福知山の玄関口「京口門」がありました。
道が大きく折れて城下町へ入っていく様子は、かつての城下町の面影を残しています。

桜の名所 復活に向けて

 かつて春になると100本を越える桜が咲き誇った福知山城を桜の名所として再興させようと、桜守として知られる十六代目佐野藤右衛門さん監修のもと、市民団体「お城に花を咲かせましょう実行委員会」との協力により2本の枝垂桜(円山公園の祇園枝垂桜の子孫、高さ8m程度)を城の入口付近と天守閣付近に植樹しました。

桜の名所 復活に向けての画像