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毛原の棚田景観詳細
毛原の棚田景観
毛原地区は、大江山南麓に広がる急峻な斜面と小さな谷に囲まれた戸数13の小さな集落です。主要道路から外れるため車の喧騒が少なく、山の緑、清いせせらぎに囲まれた、四季折々の自然、地理的条件を利用して営まれてきた約600枚の棚田をはじめ茅葺民家など、素晴らしい景観が数多く残されています。
古くは丹後国加佐郡に属し、平安時代の著名な小式部内侍の詠や著名な説話集である『今昔物語』、また『沙石集』にはこの集落の先にある元普(不)甲道を舞台とした話がいくつもあることから、この地が由良川岸辺の河守から宮津へと向う古い街道の途中にあったことを伝えています。
ところで、大江山には数々の伝説が伝えられている。まず日子坐王(ひこいますのきみ・崇神天皇の弟)の土蜘蛛退治(丹後風土記残缺)であり、次に麻呂子親王(聖徳太子の弟)の鬼退治伝説です。そして著名な源頼光の酒呑童子退治伝説です。周辺には今でも「鬼の岩屋」「頼光の腰掛け岩」「酒呑童子屋敷跡」など、伝説を留める遺跡が数多く残っています。
毛原の歴史的、文化的記念物
元普甲道(宮津街道)
府道9号線を、内宮をへて熊坂峠をこえ、左へ大きくカーブしたところから、鈍角で毛原へ入る旧道、この道縁に、古い石の道標がある。高さ約60cmぐらいの自然石で、風化が進んでいますが、よく見ると、「右ふけん左なりあい」と刻まれています。「なりあい」は宮津の成相寺、「ふけん」とあるの普賢堂で、普(不)甲寺のことです。
普(不)甲寺は、スキー場の下の集落、寺屋敷にあった古寺で、平安初期、寄世上人が山嶽道場として開き、盛時には一山60余寺、中世には北の高野山と喧伝された古刹でありましたが応仁の乱の戦場となり焼失しました。
古代の山陰道は、京都の大枝(老の坂)から亀岡盆地~篠山盆地~氷上郡を北上して但馬国府へ入るものですが、丹後国府へ至る山陰道丹後支路は氷上郡で分岐し、福知山へ入り、花浪駅(福知山市瘤木)~与謝峠を越え、加悦~府中へ至るものです。これとは別に裏街道として、花並駅から大江町(あるいは舟運を用いて河守へ)へ入り、内宮~毛原~辛皮~不甲寺~小田をへて宮津へ入 るものとがあり、この道を元普(不)甲道と呼んでいました。有名な説話集である『今昔物語集』や『沙石集』には、この普(不)甲道での出来ごとをテーマとした説話がいくつか収められています。
仏性寺~中ノ茶屋~普(不)甲峠~岩戸という現在の府道ぞいの古道は、江戸時代の初め、京極高広(元和八年から承応三年まで宮津藩主)のとき開かれたもので、普(不)甲道といわれ、いま鬼ケ茶屋の裏に残る石畳道は、この普(不)甲道の一部です。高広は普甲は不孝に通ずるとして、普甲山を千歳嶺と改名しましたが、この名はあまり普及しなかったようです。
古い道標
袈裟切り地蔵
毛原峠の頂上に小さなお地蔵さんがある。(台座を含めて50cm)、頭と胴体と台座が3つに別れバラバラに転がっています。これが「袈裟切り地蔵」です。
昔、剣豪として名高い岩見重太郎が父の仇として広瀬軍蔵ら3人を追うて、丹後の宮津へ来、寛永九年九月二十日(1652)天橋立において3人を討ちたおし、本望をとげたと伝えられています。その帰路、ここ毛原峠の地蔵堂の大杉の下で休んでいると、先回りして待ち伏せていた軍蔵の子、軍左衛門らに切りつけられる。重太郎も防戦し難を逃れたが、そのとき重太郎の刀の切っ先が触れ地蔵さんは3つに切れた。以来この地蔵を「袈裟切り地蔵」と呼ぶようになりました。
毛原峠の袈裟切り地蔵
大岩神社と岩神さん、ケヤキ、スギ、アカガシの巨木群
毛原集落の一番奥に氏神の大岩神社があります。石を並べた高く急な石段を上る。参道の左手の森にはアカガシの巨木があちこちに見えます。古びた舞堂の中に、高札が3枚、慶応4年の太政官布告、宮津県の掟が残されています。
大岩神社の横手から山手へ向う小道、平安時代から室町時代にかけて宮津へと向う元普(不)甲道の廃道です。ここから急な山道を3分ぐらい歩いて行くと大きな岩が有り、まるで岩にからみつくように巨杉が2本、前には石灯籠が立っています。これが岩神さんです。その前のあたりは昔の石畳道が残されています。
大岩神社
アカガシ巨木