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石原城跡

ページID:0001300 更新日:2020年11月10日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

6 石原(いさ)城跡(市指定)

石原城跡の画像1

石原城跡の画像2

福知山市石原

 石原城跡は福知山市石原1256番地にあり、現在は曹洞宗洞玄寺(どうげんじ)とその境内地である。


 洞玄寺『縁起書』によると「天文年中大槻安芸守(あきのかみ)光頼此地ニ城ヲ築キ居ル弘治元卯乙六月十四日逝去」とあり、また洞玄寺三世の心宗禅明(ぜんめい)禅師が元文四年(1739)に弟子の慧勤(すいきん)に編纂させた「寺記」によれば、天文年間(1532~1554)に安芸の国から大槻安芸守政治がこの地に土着して館と城を築き、やがて隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、逝去後長らく廃墟となっていたものを石原の僧、華翁(かおう)が寺を造り、安芸守の法名「洞玄」にちなんで洞玄寺と呼称するに至ったと記されている。このように、江戸時代中ごろには既にこの地が城跡として認識されていたようである。


 江戸時代の文化年間に描かれた『古城址見取図絵巻』では現状に近い城跡が描かれていることから、土塁(どるい)に囲まれた今の境内が石原城の主郭を示すと見てほぼ間違いはない。


 以上のようなことから、平成15年、16年に遺跡内容、範囲を確認するため発掘調査および測量調査を実施した。遺跡は段丘の東北端を利用して、東・西・南の三方に土塁(どるい)・空堀(からぼり)を廻らせることで要害化している。土塁の内部は洞玄寺境内であり、平坦となっており、その広さは約3,400平方メートルである。


 測量調査では石原城跡が部分的に改変されているが、土塁・空堀の形状ともに良好に残存し、当時の往時の様子を伝えていることが想定されるものであった。


 これら測量成果を基に埋没している空堀、形状の不明瞭な東端部を中心にトレンチを設定し、その内容を確認することした。調査箇所は別図のとおり、空堀部を中心に東部の「大門」伝承部、南面土塁崩壊部の土層断面である。空堀部では、いずれも0.6m~0.8m地表下で地山を成形した堀底を検出した。堀底は平坦で2.5m~3.2mの幅を測る、堀底高が判明したことで土塁高は垂直高3.4~3.9m、実効高4.6~4.8m、堀幅は7.2~7.8mを測る。


 一方、東端部の調査地点では明確な門遺構を見出すことはできなかったが、他の部位と異なる得意な構造を確認し、位置的にも上記の伝承を否定することはできない。土塁土層断面では、堅牢に層状に積み上げた盛土を確認した。


 以上のことから石原城跡は居館的なイメージのとおり、シンプルな構成の中にも堅牢な要塞性が見出せるものであり、戦国的な城形態を伝えている。築造時期を明確にする出土品は少ないが、前述の大槻氏による築造伝承も十分に推定できるものである。


 石原城跡はこれら遺構が、現代にその姿を良好に伝えているのみならず、歴史学習の教材として身近なところに存在することが特筆される。


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