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愚中周及関係遺品

ページID:0001267 更新日:2020年11月10日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

1 愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)関係遺品(府指定)

柿色地麻直綴(かきいろじあさじきとつ)の画像

柿色地字直綴(かきいろじあさじきとつ)

 

萌黄地平絹禅衣(もえぎじひらぎぬぜんね)の画像

萌黄地平絹禅衣(もえぎじひらぎぬぜんね)

 

鼠地平絹二十五条袈裟(きゅうじひらぎぬにじゅうごじょうけさ)の画像1

鼠地平絹二十五条袈裟(きゅうじひらぎぬにじゅうごじょうけさ)の画像2

鼠地平絹二十五条袈裟(きゅうじひらぎぬにじゅうごじょうけさ)

 

黒地木綿七条袈裟(くろじもめんしちじょうけさ)の画像

黒地木綿七条袈裟(くろじもめんしちじょうけさ)

 

蒲葵団扇(びろうだんせん)の画像

蒲葵団扇(びろうだんせん)

 

雲版(うんぱん)の画像

雲版(うんぱん)

 

払子(ほっす)の画像

払子(ほっす)

 

唐鏧(とうけい)の画像

唐鏧(とうけい)

 

(附)紙本墨書愚中周及賜紫衣謝偈及和韻の画像
(附)紙本墨書愚中周及賜紫衣謝偈及和韻

 

 

福知山市字大呂 天寧寺

柿色地麻直綴(かきいろじあさじきとつ) 一領 身丈114.0cm 

萌黄地平絹禅衣(もえぎじひらぎぬぜんね) 一領 身丈119.6cm

鼠地平絹二十五条袈裟(きゅうじひらぎぬにじゅうごじょうけさ) 一領 (計測不能)

黒地木綿七条袈裟(くろじもめんしちじょうけさ) 一領 縦109.0cm

蒲葵団扇(びろうだんせん) 一握 長53.0cm

雲版(うんぱん) 一面 高53.9cm

払子(ほっす) 二握 柄長27.0cm 柄長22.0cm

唐鏧(とうけい) 一口

(附) 紙本墨書愚中周及賜紫衣謝偈及和韻 一幅 縦137.0cm 横45.2cm

袈裟包布 二枚

 ここに取り上げた工芸品類は、天寧寺開山愚中周及が用いた法衣・法具類で、元より請来したものも含まれる。伝法衣(でんぽうえ)や開山の遺品として伝わってきた天寧寺第一の宝物である。法衣類は、南北朝から室町時代の染織品、その他は元時代の金工、木工品の貴重な遺品であるばかりでなく、個々に極めて個性的なものが揃っており、当時の禅文化の雰囲気を知る上でも興味深い資料である。

 柿色地麻直綴(かきいろじあさじきとつ)は非常に粗く織られた麻布製の単で、二幅の広袖を付し、襟は巾狭く、左右の袖下に襠(まち)を設ける。ひだはなく身頃は裾までひと続きとなっている変形の直綴である。

 萌黄地平絹禅衣(もえぎじひらぎぬぜんね)は表裂(おもてぎれ)は萌黄地平絹、裏裂は白地平絹の袷(あわせ)仕立ての半円形の禅衣で、肩に当たる部分に紐が付いている。夜間の屋外での坐禅に着用したものと伝える。全体に放射状と同心円状の白糸縫いを施し、表裂の十数カ所に簡略な墨描のコオロギのような昆虫がある。裏地に「□禅衣也天寧寺」の墨書がある。

 鼠地平絹二十五条袈裟は現在破損が進んでいるが、田相部(でんそうぶ)は鼠地平絹、条葉部(じょうようぶ)は縹地(はなだじ)平絹で、四天には縹地蓮池水禽文金襴.紅地二重蔓(つる)牡丹唐草文金襴、中天付近には白地牡丹文銀襴が用いられている。愚中周及が将軍足利義持より拝領したものと伝える。

 黒地木綿七条袈裟は、田相部、条葉部、四天、裏共に黒地木綿を用いて仕立てられている。愚中周及所用と伝えられる。

 蒲葵団扇(びろうだんせん)、雲版(うんぱん)、払子(ほっす)、唐鏧(とうけい)はいずれも愚中周及が元より請来し、用いたという伝承のある法具で、作風より見て愚中周及の時代までさかのぼりうるものと考えられる。

 蒲葵団扇は蒲葵の葉で扇面を作り、周囲を竹のような植物性のひごで綴じ、S字形に湾曲した木製の柄を付け、黒く塗る。

 雲版は大ぶりの雲版で、釣鐶孔(ちょうかんこう)には実際に吊るして使用した跡が残る。素朴な作りであるが、大らかな気風が感じられる。鋳銅製、中央花先形頭部に左右太く蕨手風に巻込む。下中央部に十二葉複弁の撞座(つきざ)を鋳出す。撞座は蓮実五個で芯が長く花弁が短い。中央頭部に釣鐶孔を大きくあけて縁に紐をめぐらし、その下に「金山寺」の刻銘、裏面に「廿九番」の朱書銘がある。

 払子の一は、黒柿に屈輪彫(ぐりんぼり)を施した柄の両端に波に沢瀉文(おもだかもん)を彫った象牙をはめ、金色の獣毛を植える。天寧寺に残る愚中周及の頂相に描かれる払子に当たるかと思われる。丁寧な作りである。

 払子の二は、木目のはっきりしたケヤキの上下端に蓮弁形と円環台を作り出し、褐色の獣毛を植えている。

 唐鏧は外面の上部三分の二と内面四分の一ほどまでに掛けられた鍍金が美しく残る。普通の鏧と異なり口の部分がすぼまらず、胴からまっすぐに立ち上がり、さらに径に比べて高さが高いのが特徴となっている。寺では中国からもたらされた鏧子として「唐鏧」の名称で伝えている。

 愚中周及賜紫衣謝偈及和韻(ぐちゅうしゅうきゅうししいしゃげおよびわいん)は、応永十六年(1409)に時の室町幕府四代将軍足利義持が、金山(大中臣)持実を遣わして、愚中周及に紫衣を賜ったことに対し、周及が感謝して作った偈(げ)(詩の形で仏徳を賛えたもの)と、当時の京都の禅僧たちが、これを祝して送った七言絶句の偈とを書いたもので、宝徳元年(1449)に善勗がこれを書写したものである。紙継目なし、上下三段、各段十六行十八字詰めに墨界線をひいて区切っている。

 袈裟包布のうちのひとつは葡萄茶地間道(ぶどうちゃじかんとう)と萌黄地平絹の袷で、「開山袈裟裏」の墨書があり黒地木綿七条袈裟を包む。もうひとつは萌黄地平絹の袷で、「開山御衣包子」の墨書があり鼠地平絹二十五条袈裟を包む。


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