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庵我神社 木造扁額

ページID:0001262 更新日:2020年11月10日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

2 庵我神社 木造扁額(もくぞうへんがく)(府指定)

庵我神社 木造扁額の画像1庵我神社 木造扁額の画像2庵我神社 木造扁額の画像3

福知山市字中小字立戸 一面 縦82.2cm 横49.0cm  元亨三年(1323)

額文「正二位聖大明神」

裏面墨書「元亨三年癸亥十一月二日庚寅書之」

 「散位正四位下藤原朝臣行房」

 檜材一枚板製。現状では右側三分の一のところで割れたものをつないでいる。表はほとんど素地が現われているが、胡粉下地彩色(ごふんしたじさいしき)の痕跡をとどめる。長方形の一重枠で囲まれた内区の中央に「正二位聖大明神」の文字を薬研彫(やげんぼり)し、後補の墨を注す。外縁は蓮華様の花先形模様とし、四角の角は蕨手(わらびて)状の渦巻とするが、右上角部を残し欠失する。裏は黒漆塗りとし、「元亨三年癸亥十一月二日庚寅書之」「散位正四位下藤原朝臣行房」と墨書する。

 庵我(あんが)神社は旧丹波国天田郡庵我郷に所在する延喜式内社で、古くは『続日本記』宝亀四年(773)九月条に「庵我社」として現われる。中世には庵我郷から庵我荘が成立し、鎌倉時代には宝荘厳院を本家とし、青蓮院を領家と仰いでいたが、実質的には青蓮院の支配を受け、庵我神社は荘園鎮守の性格を有していた。「聖明神」とは四祭神のうちに神功皇后をまつっているためという。

 筆者の藤原行房は行成の系統(世尊寺流)の能書の嫡流で、後醍醐天皇に近く仕え、笠置、隠岐と行を共にする。延元二年(1337)金崎城落城のとき尊良親王に殉じている。『増鏡』第十六「くめのさわら」には、行房が当時一流の能書であったことを物語る記事があるが、これまで真跡は教王護国寺蔵の願文が知られるのみであった。本扁額(へんがく)の書体は行房の祖父経朝の文永十一年(1274)の銘のある三重県・伊奈富神社の木造扁額(重文)と近似しており、扁額における世尊寺流の書体が確立していたことを知ることができる。本扁額は保存状態の良好な鎌倉時代の扁額の古例であるばかりでなく、能書行房の希少な真筆としても、世尊寺流の扁額の書体の典型としても貴重である。


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