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天寧寺文書

ページID:0001255 更新日:2020年11月13日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 

1 天寧寺文書 附天寧寺年中行事次第幷総校割帳一冊(府指定)

天寧寺文書の画像

 福知山市字大呂 天寧寺蔵  

 三巻二通(二十七通)  南北朝時代~江戸時代

 (附) 天寧寺年中行事次第幷総校割帳 一冊  江戸時代

 天寧寺文書は、南北朝時代から江戸時代前期にかけて作成され、当寺に伝来した文書で、康安二年(1362)二月三日金山宗泰(かなやまむねやす)寄進状を上限として、寛文九年(1669)十月六日平野友平禁制に至る二十七通からなる。
 天寧寺は、丹波国佐々木荘下山保の地頭職を世襲した金山(大中臣)氏の菩提寺として建立された禅宗寺院である。金山氏は、常陸国を本拠とした大中臣那珂(おおなかとみなか)氏の一流で鎌倉中期頃、当地へ入部して土着し、地名の金山を名字とした。同氏の南北朝期以前の活動についてはほとんど不明であり、わずかに「大中臣氏略系図」(府指定.個人蔵)等によって、その系譜をたどりうるにすぎない。
 天寧寺もまた、その創建の時代は明らかでない。しかし、康安二年(1362)の金山宗泰寄進状(第二巻第一号、以下2‐1のように略す)によれば、宗泰は「先祖の菩提を弔わんがため、又子孫繁昌のため」、私領の在家・田畠・山林を「てんねいし」に寄進しており、この時期すでに金山氏の菩提寺として、天寧寺が成立していたことが明らかである。
 貞治四年(1365)には、宗泰と当寺に滞在していた霊仲禅英の招きによって、丹波から愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)が入山し、当寺の開山として仰がれることになった。愚中はこののち応永三年(1396)に至るまで住山し、その後諸国を遍歴して再び当寺に戻り、応永十六年(1409)に示寂したが、その晩年には将軍足利義持の帰依を受けた。本文書1‐1~7の幕府発給文書は義持の帰依を契機とする足利将軍家と当寺の密接な関係を示すものである。とりわけ義持3通、義政二通の御教書(みきょうじょ)の正文は、丹後.丹波地方では貴重な遺存例である。
 一方、当寺の壇主である金山氏は、持実の頃から将軍家の奉公衆として近侍し、中央政界においてもその名を知られる存在となったが、歴代とも菩提寺である天寧寺の外護に努め、所領を寄進するなど寺の興隆を図った。
 戦国期以降、当寺も動乱の中で衰微したが、天正八年(1580)には明智光秀から諸役免許の判物(はんもつ)(2‐1)が与えられるなど、復興の兆しがあり、江戸時代になると歴代領主から諸役免許と寺領十石を安堵されている。
 このように、本文書は点数こそ少ないが、南北朝期から江戸前期にわたって、室町幕府発給文書から在地社会の動向を示すものまで多様な文書が遺存している。中世から近世の当寺の歴史を物語るばかりでなく、当地域の社会経済史の史料としても欠くことのできないものである。附の天寧寺年中行事并(ならびに)総校割帳は、当寺の毎月の法会と当寺の諸堂.寺宝付物を書き上げたものである。近世の写しではあるが、その内容は室町中期にさかのぼるものと認められ、中世の当寺の規模をうかがうことができる史料である。


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