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金光寺 古文書

ページID:0001249 更新日:2020年11月13日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 

6 金光寺古文書(市指定)

金光寺古文書の画像

 福知山市字喜多 金光寺蔵  四巻 紙本墨書・巻子装

 金光寺は、三岳山の中腹にあり、この地はかって比叡山の妙香院領で、金光寺はその末寺であった。下佐々木威光寺所蔵の『寺社方覚帳』によると、江戸時代初期には高野山宝城院の末寺となり不動堂をもって本堂とする金光寺のほかに宝寿院と宝光院があり、それぞれ三嶽蔵王権現(みたけざおうごんげん)の別当寺・山伏寺となっていた。しかし、江戸末期にはこの二寺は廃絶して金光寺だけが現存している。

 金光寺文書は、鎌倉末期から江戸時代におよぶ御教書(みきょうじょ)・寄進状・譲状(ゆずりじょう)・令旨(りょうじ)・禁制(きんぜい)・置文(おきぶみ)・沽却状(こきゃくじょう)・書状・掟書(おきてがき)などを四巻の巻物にして整理したもので、金光寺と三嶽神社を中心としたこの地方の、中世の歴史の一端を知ることができる。

 本文書のうち最も古いものは、鎌倉時代末、元亨二年(1322)の寄進状で、佐々木荘の領家であった治部卿(じぶきょう)法印某が、蔵王権現七王子の社に祈禱料として一石二斗の年貢を寄進している。

 南北朝期には、社寺の領域も近辺住民の押妨によってその荒廃が甚だしかったものと思われる。応安三年(1370)八月二十二日、大中臣実宗の禁制はそのような当時の世相を物語るものであろう。

 なお、「金光寺」の寺号はこの文書が初見であるが、それより四十八年前の前述の文書が遺存することから、蔵王権現の別当寺の存在が暗示せられ、鎌倉時代にすでに存在していたものと推測される。

 このほか、室町時代の本寺域が、密教寺院として厳重な禁制がしかれていた様子や、塔頭(たっちゅう)子院が多くあったことが知られる。『福知山市史・史料編一』に集録しているが、福知山地方の中世の歴史を研究する上には欠くことのできない史料である。


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