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南山 観音寺文書

ページID:0001244 更新日:2020年11月13日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 

13 観音寺文書(寺領寄進状・安堵状等)(市指定)

 観音寺文書(南山観音寺)の画像

福知山市大江町南山  観音寺蔵  十七冊

 蓮忍寄進状 延応元年(1239)

 観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1232)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御庄観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。

・興心寄進状 正和二年(1313)

・左衛門慰頼広寄進状 文和二年(1353)

・散位平朝臣寄進状 文和三年(1354)

・沙弥明浄寺領安堵状 延文元年(1356)

 この文書は沙弥明浄の寺領安堵状である。延文元年(1356)は将軍足利尊氏の晩年にあたり、注目すべきは将軍御台所寄進の土地があることで、当時の観音寺の威勢がうかがわれる。また、この安堵状には尾藤姓を名のる二人の人物が登場していることで、観音寺に寺領を寄進することのできる力を持った豪族層が成長していたことを示す良好な資料である。

・細川忠興寄進状 天正十年(1582)

 細川忠興は父藤孝とともに、天正六年、信長から丹波・丹後平定の命を受け、七年十月、一色氏を滅ぼし八年八月、信長より丹後を与えられて田辺城主となる。この寄進状は、その翌年に当たり、入国早々に観音寺へ寄進しているのは、まず、有力な社寺の所領を安堵しその傘下の民衆の服属をねらった政治的配慮と考えられる。

・生双(京極高知)寄進状 慶長七年(1602)

 生双とは勢井が原の合戦後、丹後に移封された京極氏初代京極高知である。京極氏も同じく、入国早々に観音寺へ寄進しており、当時の観音寺の威勢がうかがえる。このほか、田辺藩初代高治、二代高直の寄進状がある。

  • 京極高治寄進状 寛永三年(1626)
  • 京極高直寄進状 承応二年(1653)
  • 牧野富成寄進状 延宝八年(1680)
  • 牧野英成寄進状 元禄九年(1696)
  • 牧野治成寄進状 元文四年(1739)
  • 牧野惟成寄進状 寛延四年(1751)
  • 牧野宣成寄進状 天明四年(1784)
  • 牧野以成寄進状 文化元年(1804)
  • 牧野節成寄進状 文政九年(1826)
  • 牧野誠成寄進状 嘉永五年(1852)

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