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天寧寺 薬師堂、開山堂

ページID:0001232 更新日:2020年11月16日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 

2 天寧寺 薬師堂 附棟札三枚 祈祷札一枚、開山堂 附棟札一枚 祈祷札二枚、附鎮守堂(府指定)

天寧寺(てんねいじ)薬師堂、開山堂の画像

天寧寺(てんねいじ)薬師堂、開山堂

 

薬師堂天井雲龍図の画像

薬師堂天井雲龍図

 

開山堂 木造愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)像の画像

開山堂内 木造愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)像

 

開山堂 木造即休契了(そっきゅうけいりょう)像の画像

開山堂内 木造即休契了(しっきゅうけいりょう)像

 

 福知山市字大呂 二棟

 薬師堂 桁行三間、梁行三間、一重裳階付、入母屋造、こけら葺 寛政六年(1794)

 (附)棟札3枚、祈禱札1枚

 開山堂 六角円堂、土蔵造、桟瓦葺 寛政五年(1793)

 (附)棟札1枚、祈禱札2枚

 (附)鎮守堂 一棟

 天寧寺は福知山の北方の山間に所在する臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、貞治四年(1365)地元の地頭大中臣宗泰(おおなかとみむねやす)が自らの氏寺に愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を開山として招いたことから始まる。足利義持ら室町将軍家の帰依を得て寺は隆盛に向かい、当時奢美に流れる五山に抗して独自の厳格な禅風を守った。戦国期になると有力な外護者を失って荒廃したが、江戸初期になって復興された。安永六年(1777)の火災ですべてを失ったあと、庫裏(くり)、方丈(ほうじょう)、開山堂、仏殿(薬師堂)などが再建されたが現在は開山堂と仏殿のみが残る。

 薬師堂は寛政六年(1794)に建立され、方三間(ほうさんげん)裳階(もこし)付という禅宗仏殿の正規の形式を持つのが特色である。

 内部は四半瓦敷(しはんかわらじき)で、宮殿を背面いっぱいまで後退させることによって柱に拘束されない広い空間を獲得している。方三間分は雲竜を描いた鏡天井(かがみてんじょう)とするが、その四周はゆるい勾配でせり上り、尾垂木風(おだるきふう)の天井受を三手先(みてさき)組物で受けて禅宗仏殿風架構に見せかけている点が他に例を見ない近世的な手法といえる。天井絵は京都の著名な画家原在中(はらざいちゅう)の筆になり、大工は服部太郎兵衛、今井万右衛門、同八右衛門が担当している。

当薬師堂は、丹波・丹後を通じて唯一の方三間裳階付の仏殿形式を残している堂として貴重であるが、完成された仏殿形式をそのまま踏襲するのでなく、平面及び構造計画に近世の特徴といえる自由で合理的な扱いをみせ、また細部装飾に大工の優れた技術が示されている点で、近世建築のひとつの到達点を示す遺構といえる。

開山堂は寛政五年(1793)の建築で、薬師堂の向って右に並ぶ。六角円堂で土蔵造りという珍しい形式をもち、内部は四半瓦敷の外陣(げじん)と木階(ぼくかい)を備えた板敷の内陣に分けられる。堂全体に、放射状に入れた棹縁(さおぶち)で受ける天井を張り、内陣の前面に蓮弁をかたどった装飾を戴くなど、六角形という特異な平面をうまく処理し、随所に独創性を発揮した建築として貴重である。

 

 

 

 

 


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