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観音寺本堂

観音寺本堂の画像
観音寺本堂

表門の画像
表門

表門組物の画像
表門組物

鐘楼の画像
鐘楼

本堂内陣欄間彫刻の画像
本堂内陣欄間彫刻
本堂内陣天井の画像
本堂内陣天井
本堂外陣天井の画像
本堂外陣天井

本堂内陣欄間彫刻裏面の画像
本堂内陣欄間彫刻裏面

3 観音寺本堂(府指定)

福知山市字観音寺 一棟

桁行五間、梁行五間、一重、入母屋造、向拝一間、桟瓦葺 天明四年(1784)

(附)旧本堂棟札 二枚、鐘楼一棟、鐘楼棟札1枚、表門一棟

観音寺は、福知山市の東方、由良川の南にある小高い丘の北麓に寺地を占める。北向に仁王門を開き、南にのびる三道の西側に庫裏(くり)や表門、土蔵など本坊を配し、東側に本堂など主要伽藍を構える。法道上人が開き、応和元年(961)に空也が再興したと伝え、中世以降、北条氏や足利尊氏などの庇護を受けて発展し、近世には綾部藩主九鬼(くき)氏ほか、広く崇敬を集めた。

本堂は、三道から東側に石段を上がったところに西面して建つ。天正七年(1579)に再興した旧本堂が大破したため、天明四年(1784)に柱立、棟上、瓦葺等を行い一応の完成をみた。その後、寛政七年(1795)に擬宝珠(ぎぼうし)などが取り付けられ、天保四年(1833)に内陣回りの欄間がはめられ、現在みる形となった。

大工は寺蔵文書より「備前國色奥郡上山田村太郎兵衛」とわかる。この大工は天寧寺の薬師堂や開山堂(いずれも京都府指定文化財)の大工と同一人物であると考えられ、当本堂竣工後、天寧寺に取り掛かったようである。観音寺本堂が和様(わよう)を主体とした意匠でまとめられているのに対し、天寧寺薬師堂は禅宗様仏殿であり、太郎兵衛は両様式に通じた大工であったと考えられる。欄間の彫刻は、金剛院本堂や光明寺本堂の向拝彫刻を彫った中井權次橘正貞の作である。

桁行五間、梁行五間の規模をもち、正面に一間向拝を付ける。堂内は桁行三間、梁行三間を内陣とし、これを正面二間通り側面一間通りの凹部の外陣(げじん)が取り囲む。内陣は前寄り二間の内々陣と後一間通りの後陣からなり、後陣境中央に来迎柱と来迎壁をたて、その前に禅宗様須弥壇(しゅみだん)を置く。須弥壇上に宮殿(くうでん)をのせるが、宮殿は屋根を造らず、宮殿の柱上から本殿の天井へ組み上げられる珍しい構造になっている。

床は、現状では須弥壇回りを除いて畳敷であるが、当初は全面板敷で、内陣のみ畳廻敷きとした。天井は、堂内入側(いりがわ)一間廻りを化粧屋根裏天井、その内側の外陣側を格天井(ごうてんじょう)(植物を描く)、内々陣を折上(おりあげ)格天井とする。内・外陣境は側面後寄り2間以外には簡略な結界であったと考えられる。また、正.側面の建具は取外しができるようになっており、必要に応じて堂内を開放し、多くの参詣者を外陣に入れた。

細部に目をむけると、宮殿の構造や、外陣天井廻りの架構、蓮弁を付けた向拝大斗(だいと)、縄を編んだような手挾、類例のない木鼻や蟇股(かえるまた)など、独創的な感覚をもち、創造的意欲に満ちた意匠となっている。このような思い切った意匠でありながら、建築総体は破綻をきたすことなくまとめられており、棟梁大工の力量が十二分にうかがわれる。

外陣と脇陣の境をなくして、一体的な空間を持つ密教本堂でありながら、室境や側廻りなどに開放的な指向がみられ、近世的な要素も色濃い。しかも、独特の意匠など美的質の高い建築となっており、近世丹波の代表的仏堂といえよう。 

境内には他に江戸時代のものとして、鐘楼と表門が残っている。鐘楼は、本堂の西北に建つ。切妻造、桟瓦葺(さんかわらぶき)で、吹き放しとする。鐘を突く位置の腰貫(こしぬき)を省略し、内法貫の中央を折り上げるなど、突きやすいように工夫されている。但馬国朝来(あさこ)郡竹田町の大工によって、寛政元年(1789)に建てられた。

表門は両袖付きの棟門で、本坊の正面に建つ。屋根を段違いに見せる特殊な外観や挿肘木(さしひじき)を4段に組む大仏様風の斗栱など、外観、細部ともあまり例のない建築である。江戸時代ごろに本堂と相前後して建てられたものと考えられる。


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