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旧平野家住宅

6 旧平野家(ひらのけ)住宅主屋(府指定)

主屋全景の画像
主屋全景

1回つづきの間の画像
1階つづきの間

洋小屋(キングポストトラス)の画像
洋小屋(キングポストトラス)

二階正面縁側の画像
二階正面縁側

平野家住宅配置図の画像
平野家住宅配置図

福知山市大江町字北有路

 桁行21.7m、梁行12.8m、二階建、入母屋造、正面玄関両脇及び東面、背面庇付、桟瓦葺、西面味噌蔵附属桁行6.9m、梁行5.9m、桟瓦葺棟札1枚、祈祷札1枚、家相図5枚。建築年代明治42年(1909)[棟札、祈祷札]

 平野家は、江戸時代のはじめに有路に移り住み、平野姓を名乗ったというが、その経緯は明らかではない。江戸時代には酒造業を営み田辺藩主牧野氏の御用達となって頭角を現し、苗字帯刀を許された。また、田辺藩にとって重要な由良川舟運の管理を任され、舟改めとして活躍し、幕末には製糸業にも手を拡げていた。現在の主屋は、明治40年由良川大水害の後の明治42年(1909)平野家第一二代吉左衛門のときに建築されたものである。

 吉左衛門は、明治23年(1890)には平野操機場を設立して輸出向けの羽二重製織を行ない、明治33年(1900)には酒造業を廃し、平野銀行(後に京都銀行の前身銀行のひとつとなる)を設立し、金融業にも事業を拡大していった。事業のかたわら、明治19年には加佐郡養蚕糸業組合の結成に尽力し、明治23年には自宅を開放して中等養蚕伝修所を開き、地域産業や人材の育成に努めていた。

 敷地は大江町有路上の由良川左岸の山麓に位置する。屋敷前の国道から石段を二回あがった高台に敷地を構え、正面及び側面の一部に石垣を積み、背後は山の斜面につづく。正面に表門を開き、周囲に土塀や透塀を巡らす。敷地中程に主屋か建ち、東に離れ座敷、西に味噌小屋を張り出す。主屋の東南側に露地門と土塀で区切った庭をつくる。敷地背面西寄りに土蔵を三棟並べるなど付属建物は多い。
 主屋は入母屋造、桟瓦葺、本二階建ての建物で、南面して建つ。一階の間取りは、西側に通り土間を持ち、片側に居室を並べるという伝統的な民家の平面形式を基本にしたもので、縁側を矩折りに廻し、床や棚、書院を構えた座敷や続き座敷で構成され、正面には式台を構える。中央に仏問を配し、二階への階段は仏問横と北東隅に二か所設けられている。
 二階は、階高を十分に取った本二階建てで、小星組は洋小屋(キングポストトラス)としている。中央の階段を上がったところを板間のホールとし、その回りに七室を配する。一階同様、南・束側に矩折りに縁側を廻し、正面中央に一問一幅の床を備えた八畳の座敷、東側に床・棚を備えた八畳の続き座敷、北側には茶室と水屋を配する。

 建築年代は、居室部小屋組真東に打ち付けてあった棟札及び祈祷札から明治四一年一〇月の着工、翌四二年三月二九日に竣工したことが判明する。施主は平野家一一代当主吉左エ門吉左衛門とその父広泰、大工棟梁は舞鶴の迫田吉蔵であった。当住宅主屋は、伝統的な民家形式を基本としながら多彩な座敷構成をとり、一部に数寄屋の意匠や茶室を備え、洋小屋を採用するなど近代の和風建築としての要素も合わせ持つ。座敷廻りをはじめ全体に建築の質が高く、保存状態も良好である。さらに、棟札及び祈祷札が残り、建築年代、施主、大工をはじめとする職工等が判明し、家相図から屋敷と建物の変遷がわかる貴重な遺構である。


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