ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

紙本金地著色浜松図

16 観音寺 絹本著色千手観音像(市指定)

紙本金地著色浜松図の画像1
紙本金地著色浜松図の画像2

 福知山市大江町河守縦 六曲一双 縦157,6cm 横361,6cm
 浄仙寺は、応永十一年(1404)三月の開創、河守城主新治内蔵之佐持忠(天輝公)が入道して淨泉と改名し、草庵を仲町蘭塔(らんとう)に開き、後享保十七年(1732)、十四世随誉上人のとき現在地に移転したと伝える。(浄仙寺古記録)
 
 在地文書「新治系譜」によれば、新治氏は、もと丹後国吉原の郷士で、蔵人定昭のとき、源範頼の平家追討「一の谷の戦」で戦功があり、頼朝から丹後の二庄を賜わり、文治三年(1187)新治郷に入った。後、一色氏の幕下に入ったが、利昭一のとき山名氏の一色氏攻めの際新治郷を捨て、明徳二年(1389)河守に築城したとある。
 
 浄仙寺の草創は、この河守初代、新治内蔵佐利照の没後十三年目に当るところから、浄仙寺は二代城主近照が初代を弔い、一族の菩提寺として開創したのではないかという説もある。浄仙寺裏の墓地の一番奥の正面に、新治内蔵之佐の墓と伝える古墓が今に残っている。
なお現在の本堂は、天保十四年(1843)の再建、山門は文政三年(1820)の建立である。
 
 屏風は典雅な曲線で画面をわける洲浜に、枝振りのよい老松を点在させた浜松図で、大和絵系障壁画の伝統的な画題である。この展風には書所預五位下藤原光芳の落款と光芳之印の白文方印があり、畫所預職を継いだ土佐家の、土佐光芳(安永元年〔1772〕没)の作とわかる。
 この屏風は、浄仙寺の檀徒であった河守の大庄屋、真下六郎右衛門氏が浄仙寺に寄贈したものである。


みなさんの声を聞かせてください

このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?