ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織からさがす > 文化・スポーツ振興課 > 浄仙寺 紙本金地著色浜松図

本文

浄仙寺 紙本金地著色浜松図

ページID:0001182 更新日:2020年11月11日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

31 浄仙寺 紙本金地著色浜松図(市指定)

紙本金地著色浜松図の画像1
紙本金地著色浜松図の画像2

 福知山市大江町河守  江戸時代  

 六曲一双   右隻 縦157.6cm 横363.6cm   左隻 縦157.8cm 横362.2cm


 浄仙寺は、応永十一年(1404)三月の開創、河守城主新治内蔵之佐持忠(天輝公)が入道して淨泉と改名し、草庵を仲町蘭塔(らんとう)に開き、後享保十七年(1732)、十四世随誉上人のとき現在地に移転したと伝える。(浄仙寺古記録)
 
 在地文書「新治系譜」によれば、新治氏は、もと丹後国吉原の郷士で、蔵人定昭のとき、源範頼の平家追討「一の谷の戦」で戦功があり、頼朝から丹後の二庄を賜わり、文治三年(1187)新治郷に入った。後、一色氏の幕下に入ったが、利昭一のとき山名氏の一色氏攻めの際新治郷を捨て、明徳二年(1389)河守に築城したとある。
 
 浄仙寺の草創は、この河守初代、新治内蔵佐利照の没後十三年目に当るところから、浄仙寺は二代城主近照が初代を弔い、一族の菩提寺として開創したのではないかという説もある。浄仙寺裏の墓地の一番奥の正面に、新治内蔵之佐の墓と伝える古墓が今に残っている。
なお現在の本堂は、天保十四年(1843)の再建、山門は文政三年(1820)の建立である。
 
 屏風は典雅な曲線で画面をわける洲浜に、枝振りのよい青松を点在させた浜松図で、大和絵系障壁画の伝統的な画題である。この展風には「書所預五位下藤原光芳」の落款と光芳之印の白文方印があり、畫所預職を継いだ土佐家の、土佐光芳(安永元年〔1772〕没)の作とわかる。
 この屏風は、浄仙寺の檀徒であった河守の大庄屋、真下六郎右衛門氏が浄仙寺に寄贈したものである。


みなさんの声を聞かせてください

このページの情報は役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか?