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第5章 だんだん気になる好きになる・・・ コレであなたも光秀通

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ページID:0056977 更新日:2019年11月21日更新

第5章のトビラ

(いがいと!) 光秀は出しゃばりで親分肌だった?

今日、光秀は知識や教養が豊かで生真面目で繊細な性格だったとする人物像が一般的になっていますが、最近の研究によると、どうやら出しゃばりなところがあったようなのです。
光秀は余所から引き抜かれ、他の家臣を差し置いてみるみる出世していきました。当然、彼を快く思わない家臣も多かったそうです。そんな環境で活躍したのですから、出しゃばりでなければ出世はできなかったでしょう。
また、仲間に対してはひたすら面倒見がよく親分肌だったり、気配り上手だったことが垣間見えるエピソードも多数残っています。イメージとちがって、いがいと!人たらしで抜け目がなく、ワイルドな人だったのかもしれませんね。

(いがいと!) 戦も政治もまさに文武両道だった?

いがいと、というわけではありませんが、明智光秀は軍略に優れた武将であったと同時に、茶の湯や連歌にも造旨の深い教養人でもあり、多くの文化人と交流がありました。
また、土木・建築にも才能があり、行政手腕にも長けていました。さらに、織田の軍団の中で最も鉄砲の運用に詳しかったなど多方面に渡ってその教養を発揮しています。軍事面でも政治面でも、信長にとっては欠かせない存在だったのではないでしょうか。
あまりに優秀すぎるからか「教養人だからこそ残虐な信長の行為が許せなかった」という評価もありますが、反面、光秀は様々な場面で躊躇なく「虐殺」を実行しており、合理的かつ残酷な戦国武将でもあったのです。

(いがいと!) 側室を持たず愛妻家だった?

明智光秀の正室・熙子(ひろこ)は、光秀が流浪の身で困窮している時でも、急な来客をもてなすため、自分の黒髪を売ってお金に換え、光秀の面目を保ったといいます。
苦難の時代に夫を支え続けた熙子を、光秀もまた生涯をかけて愛し続け、側室を持たなかったといいます。戦国武将といえば側室をたくさん持つイメージですが、いがいと!光秀は愛妻家だったのかもしれませんね。
ちなみに、福知山観光協会のイメージキャラクター「光秀くんとひろ子さん」は、このエピソードをモチーフにデザインされています。

光秀くんとひろこさん
テレビアニメ「忍たま乱太郎」の原作者である尼子騒兵衛さんのデザイン。いつでもラブラブしています。

(いがいと!) 戦国武将のたしなみ大江でお茶してた?

天正9年4月、光秀が細川幽斎とその子・忠興(ただおき)らとともに、築城間もない福知山城で明智秀満から茶の振る舞いを受けたという記録が残っています。その翌日、光秀らは、細川氏が新しく築城した宮津城に向かっているのですが、道中、「福寿院」という場所に立ち寄ったとされています。この福寿院は、同名の建物があった大呂のことだとも、大江町河守「河守福寿新城」にあったとも言われています。
ちなみに彼らはこの後、天橋立でもお茶会をしています。当時の茶会は商談や謀の場でもありました。光秀の娘・玉(ガラシャ)と忠興は結婚しており、かなり親しい付き合いだった明智家と細川家。いがいと!意味深な旅行だったのかもしれません。

河守城跡遠景
右端の山が河守城跡、麓に河守新城があったとされています。

あわせてこちらもご覧ください。
知られざる「明智光秀」を訪ねて

※この記事は広報ふくちやま2019年2月号より引用しています。