ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

第4章 この人物も要チェック! 明智秀満「左馬助(さまのすけ)」

福知山光秀ミュージアム > 明智光秀とは > 明智光秀とは > 第4章 この人物も要チェック! 明智秀満「左馬助(さまのすけ)」

本文

ページID:0056974 更新日:2019年11月21日更新

第4章のトビラ

光秀に忠誠を誓った猛将

福知山といえば光秀ですが、実はもう一人、注目してほしい人物がいます。光秀の娘婿に当たる、明智秀満。光秀に代わって福知山城に入り城下町を治めていた人物です。

明智秀光肖像画
明智秀満(左馬助)
文献によりいくつもの名があり、光春と書かれることも。享年25歳とも47歳とも言われています。
歌川国芳(うたがわくによし) 武者絵「勇士左馬之助光晴(太平記英雄伝三十一)」
秀満は坂本城落城に際し、天下の財宝をここで失くしてはいけないと、敵将に引き渡しています。その目録を確認している様子が描かれています。

光秀の重臣・明智秀満

もとは三宅弥平次といい、光秀同様その前半生は謎ですが、光秀に仕えると活躍を認められ、天正6年(1578)、明智姓を与えられました。
謀反の計画を光秀から最初に相談されていたとされる人物で、最初は諫めたものの、光秀が他の重臣にも相談してしまうと、「他言した以上、いつかは知られてしまう」と進言し、実行を後押ししたとも言われています。本能寺の変では、先鋒として信長を襲撃しています。

福知山城の城代に

福知山城築城後、光秀は城代として秀満を置きました。
秀満に関する資料としては、天寧寺(大呂)に対して光秀が発した書状の効果を引き続き承認する秀満の書状(天寧寺所蔵)が残っています。また、天正9年には、福知山城で光秀らをお茶で接待したという記録も残っています。
さらに昨年、秀満が地方豪族に由良川(大江町)での漁業権を認める書状が見つかっています。

湖水渡りの伝説

山崎の合戦時には、光秀の天下に備えて安土城の守備についていた秀満ですが、光秀敗北の報せを受けると坂本城へ急行。味方の救援に向かいましたが、道中、秀吉方の軍勢と戦闘になりました。
次第に追い詰められた秀満は乗馬したまま琵琶湖に飛び込み、湖を渡って坂本へ向かったといいます。その華麗な脱出劇は「湖水渡り」という伝説となって語り継がれています。馬で湖と浜辺の間の陸地を走り抜けたというのが事実のようですが、伝説になるほど見事な脱出だったのかもしれません。

武者絵の写真
武者絵「武智左馬之助近江湖水歩」

潔く明智一族の幕を引く

秀満はかろうじて坂本城へたどり着きましたが、城は完全に包囲されました。一族の命運を悟った秀満は、光秀の妻子を刺し、坂本城に火を点けた後自刃しました。これによって明智一族は滅亡しました。
また、この時、秀満に代わって福知山城にいた秀満の父も福知山城から退却する際に捕らえられ、生きたまま磔にされました。
江戸時代の演劇や小説では、明智光秀は悪逆非道の信長を倒したヒーローとして描かれることが多くあり、秀満の湖水渡りなどの華麗な武勇も歌舞伎や浮世絵に多く描かれました。主君思いの信義に厚い人物として様々な逸話が語られています。

第5章:だんだん気になる好きになる・・・ コレであなたも光秀通

※この記事は広報ふくちやま2019年2月号より引用しています。