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第3章 本能寺の変はなぜ起きたのか?

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ページID:0056972 更新日:2019年11月21日更新

第3章のトビラ

本能寺の変の1年前、光秀は信長に感謝の気持ちを綴っていた

なぜ、本能寺の変は起こったのか。なぜ出世頭であった光秀が、主君である信長を討つことになったのか。今でも日本史上最大のミステリーとなっています。
古くからよく言われているのは、怨恨説です。信長に対して積もり積もった鬱憤を爆発させたのが「本能寺の変」の原因とする説です。また「光秀が天下を取ろうとした」とする野望説や公家が権力を回復しようと光秀をそそのかして信長を討たせたとする朝廷黒幕説、光秀が信長の悪逆非道を止めようとした、四国政策の方向性の違い、羽柴秀吉との出世争いに疲れた、京都から離れるのが耐えがたかった、人前で折檻を受け、プライドをズタズタにされたなどいろいろな説が囁かれています。
信長を討った本当の理由は分かりませんが、少なくとも本能寺の変に至る動機はいくつもあったようです。

御霊神社には、明智光秀が定めたとされる『家中軍法』が伝わっています。これは、明智家の軍団の規律や軍役の基準を記した全18条からなる軍法です。軍の管理・統制を目的としたルールは、当時の織田家にはまだ存在せず、丹波の土豪を配下に置くことになった光秀が、その統制のために定めたのでしょう。
その先進性も重要ですが、注目すべきは最後の部分です。そこには、「水に沈む瓦礫のように落ちぶれた身分であった私を召し抱え、たくさんの軍勢を預けられた。粉骨して忠節に励めば、主君にも伝わるだろう」と書かれており、信長へ恩義を感じていることが伺えます。
この軍法が定められたのは、本能寺の変を起こすちょうど1年前。光秀がどんな思いでこの文章を残したのか。本当に恩義を感じていたのであれば、光秀の心はなぜ、どのように変化したのか。今では知る由もありません。
これまでとは異なる新しい光秀像を作ると発表している2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」ではどのように描かれるのでしょうか。

家中軍法の写真
明智光秀家中軍法(御霊神社所蔵)
天正9年(1581)6月2日付で明智光秀が発布した軍法。当時の軍隊構成を推測できる貴重な資料です。1条から7条は軍の規律について、8条から18条までが軍役の基準が記されています。
福知山城(郷土資料館)では、家中軍法の複製を展示しています。

コラム

「福知山城の石垣に残る光秀の足跡」

福知山城は、何度か増築工事を行っています。天守閣西側の石垣には明らかに線が見えます。この線より南側が光秀に築かれた部分です。根拠は、積み方と石材にあります。
形がばらばらな石を乱雑に積んでいるようにも見えますが、実は「野面積(のづらづ)み」と呼ばれる強固な石垣づくりの技法によるものです。安土城で大成した技術で、光秀の本拠地であった坂本城もこの積み方でした。
また、積まれた石の中には石仏や石臼、五輪塔などが混ざっています。これは「転用石」と呼ばれ、福知山城の石垣には500個以上もの転用石が使用されています。
ここまで多くの転用石を使用した理由は諸説ありますが、一説には、光秀の治世に反抗する寺院勢力に対して、建物を壊し、石塔を石垣として組み込むことで、自身の支配力を強めるためだったと言われています。
石垣の写真
福知山城の石垣

第4章:この人物も要チェック! 明智秀満「左馬助(さまのすけ)」

※この記事は広報ふくちやま2019年2月号より引用しています。