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第1章 明智光秀 謎に包まれた戦国武将の生涯

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ページID:0056968 更新日:2019年11月21日更新

第1章のとびら

 

福知山ゆかりの戦国武将、明智光秀。全国的には主君を裏切った人物として、良いイメージでは描かれません。しかし、福知山で育った人は、光秀を善政をしいた良君だと教わった人も多いのではないでしょうか。
そこで数々の文献や伝承から、光秀にまつわるお話をまとめてみました。2020年大河ドラマが始まるまでに、明智光秀のことをもっと知って、もっと好きになってみませんか?

福知山城と桔梗の写真
福知山城と桔梗。明智家も家紋は水色桔梗とされ、鮮やかな水色の陣羽織は、戦場でもよく映えたといいます。

明智光秀は岐阜県出身?

戦国武将・明智光秀。「本能寺の変」で主君織田信長を討った人物として有名です。全国的なイメージに反して、福知山では「まちの基礎を築いた人物」として英雄視する人も多く、大河ドラマの誘致活動にも精力的に活動してきました。

あけっつぁまの写真
明智神社(あけっつぁま)
光秀の尽力で戦禍をまぬがれたことを感謝し、3軒の農家がひっそりと光秀像を守ってきたといいます。(福井県福井市)

実は、明智光秀の生涯には謎が多く、その前半生はよく分かっていません。通説では、美濃(今の岐阜県)の土岐明智氏を出自とすると言われています。流浪の身となり、一時期は越前(今の福井県)にいて、当時その地域を治めていた朝倉氏に仕えていたともされていますが、確実な資料は見つかっていません。

破格の大出世

盟友となる細川藤孝(のちの細川幽斎)と出会うと、藤孝の下で足利将軍家に仕えるようになり、将軍家と織田信長との交渉役として活躍しました。その中で信長は、光秀の実行力、深慮、狡猾さを見出し、ことあるごとに光秀を重用するようになりました。光秀は織田家の家臣であるような活躍を見せ、また信長もそのように扱ったといいます。
やがて、光秀は近江志賀郡(今の滋賀県大津市)を与えられ、豪華壮麗な坂本城の建設を許可されるなど破格の厚待遇を受けます。将軍家と織田信長が決別すると、かつて仕えていた藤孝をも軍団の配下にし、織田家を代表する武将へと成長していきました。

坂本城跡の写真
明智光秀が築いた坂本城は、琵琶湖に迫り出した美しい水城でした。しかし、今では石垣の一部が湖に沈んでいるのみです。

織田家の重臣に

天正3年(1575)6月、光秀は丹波地方の攻略を任されます。丹波地方は山深く、豪族が割拠し、また京に近かったことから、その攻略は信長にとって大きな課題でした。光秀は、丹波以外にも各地の重要な戦いに動員されており、あちこち転戦しながらも、幾多の困難を乗り越え、天正7年(1579)、およそ4年かけて丹波平定を完了しました。信長はこの時の光秀の活躍を「名誉比類なき」と大きく賞賛し、光秀に丹波一国を与えました。ここで光秀は、名実ともに大大名となったのです。
光秀はプロデュース業にも長けていたようで、様々な行事の開催にも力を発揮し、信長から大きな信頼を得ていました。天正10年(1582)には、信長の命で徳川家康を持てなす饗応(きょうおう)に注力していました。しかし準備中に、羽柴秀吉の中国攻めを手伝うよう命令が下り、出陣のため亀山城へ移動しています。
そしてこの2日後、あの有名な「本能寺の変」が起こります。

本能寺の変

天正10年6月1日午後9時ごろ、亀山城から明智光秀の軍勢が出発します。光秀は軍勢に対し、「出陣の軍装を信長に見てもらう」のだと偽って京へ向かいました。そして翌日早朝、1万人あまりの光秀の軍勢が、信長がいる本能寺へ殺到しました。
信長は、謀反の主謀者が明智光秀だと知ると、「是非もなし」と一言だけ発し、応戦したといいます。「仕方がない」とか「やむを得ない」というような意味だそうです。負傷した信長は自刃、その息子・信忠も討ち果たし、光秀のクーデターは成功。光秀は天下人に最も近い存在となりました。

本能寺跡の写真
本能寺跡

本能寺焼討之図
「本能寺焼討之図『真書太閤記』」(福知山市郷土資料館所蔵)

こぼれおちた天下

信長を討った後、光秀は権勢を磐石なものにすべく、各方面に味方になるよう呼びかけました。その間、ライバルであった羽柴秀吉は中国攻めの和睦をまとめ、一目散に京へ戻ります。
光秀の期待に反して彼になびくものは少なく、十分な戦力を確保できないまま山崎(大山崎町)の地で秀吉軍と激突。総勢4万人に膨れ上がっていた秀吉勢に対し、光秀の勢力は1万5千人。勝敗は明らかでした。

光秀の最後

山崎で敗れた光秀は、勝竜寺城(長岡京市)に籠城しますが、すぐに包囲され、坂本城へ逃亡。敗走中、小栗栖(京都市伏見区)で農民の落ち武者狩りに遭い殺害されたと伝わっています。こうして光秀は、主君を討った逆賊として悲劇的な最後を迎えました。

明智藪の写真
京都市伏見区にある、光秀が討ち取られたとされる場所には石碑が立っており、「明智薮」と呼ばれています。

謎に包まれた武将明智光秀

その生涯や「本能寺の変」の動機に謎が多いことから、様々な描かれ方をする明智光秀。山崎の戦いののち、僧侶になって徳川家を支えたなどの創作話も伝わっています。
謀反人という一般的なイメージに反して、福知山や亀岡などでは英雄として語り継がれるなど多様な表情を見せる明智光秀は、多くの人の興味を惹きつけています。

第2章:明智光秀が築いた丹波福知山 このまちの、はじまりのはなし

※この記事は広報ふくちやま2019年2月号より引用しています。