蓼原港は天領である蓼原・公庄のほか、河守や関などの宮津藩領の年貢輸送にあたっていました。

 蓼原から由良経由、宮津まで舟路11里ばかり、年貢以外にも河守の産物の輸送にあたっており、蓼原港は河守の外港の役割を果たしていたものと思われます。
 しかし、蓼原港は由良川下流を制する田辺藩と、豊かな物産を背景として多くの川舟を動かしていた福知山藩にはさまれ、活動の制約を受けていたようです。
 1742年には、蓼原港の前を遡上してきた田辺藩有路村の舟を実力行使で阻止するという事件が起き、110日間にわたって福知山への運航がとまり、江戸出訴の結果、「蓼原村の舟は商い舟として、公儀(幕府)に登録されていない」として蓼原側の全面敗訴に終わりました。しかし、蓼原舟は舟航を続けていたと見え、50年後にも同様の事件が起きました。

 蓼原の舟着き場は、古くは舟戸神社下であったと考えられていますが、由良川流路の変化に伴い、後世、現在の由良川河畔の位置に移動したものと考えられます。そこには1番船戸から5番舟戸までの地名が残っています。

 由良川舟運が完全に自由化した明治元年(1868年)以後、それから舟運が衰微していく、明治30年代までが、蓼原港の最盛期であり、その後、蓼原は河守町の隣接地である上、渡し場を接点として河東村にも近い商店街として発展しました。

参考文献 『大江町誌通史編下巻』
                 大江町1984

船戸のあった尾藤橋付近(尾藤橋は撤去中です)

現在の蓼原

港町 蓼原

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