宿場町 河守

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現在の河守の町並み

関付近

河守遠景

 江戸時代、宮津藩最南端の町として栄えた河守には、旅籠・木賃宿が立ち並び、宿場町としての体裁を整えていました。一力楼・伊藤楼・山中楼・ぬしや・太田楼などの旅籠や木賃宿は明治以降も残り、昭和にまでその面影を残していました。

 江戸時代中期以降になると、貨幣経済の発達をうけ、河守ではロウソクの製造・製紙・搾油・製糸などがおこり、農家でも、ハゼ・菜種の生産をはじめ、養蚕も盛んになります。こうして、河守では従来の宿場町としての機能のほか、地域の交易活動としての中心地として、多彩な商工業が発達しました。この商工業の発達を裏付けるのがいろいろな屋号を冠した町屋の存在であり、これらの屋号はその出身地を冠じたものとみられる丹波屋・近江屋・明石屋など地名系列の屋号と、麹屋・紺屋・油屋・樽屋など職業的な業種をさしたものとに大別できます。

 こうした藩政期の間で、河守の特産物として名をはせたのがロウソクでした。ロウソクの製造業者は、河守だけで20軒を数えました。原料のハゼの実は周辺の山地でつくられ、農民の換金作物となりました。このハゼの実を搾って、ロウソクの原料である木蝋(もくろう)をとりましたが、その製造業者も数軒あったようです。

 つくられたロウソクは、販売専門の行商人によって、三丹地方はもとより京阪神から北陸方面にまで販路を広げていきました。ロウソクの行商は富山の売薬と同じように主に置き換えの方式をとり、農閑期には多くのロウソク行商人が出かけました。なお、明治以降、機械生産による西洋ロウソクが出回るようになると、当地の和ロウソクは大打撃を受け、僅かに寺院や神社の灯明用として、命脈を保っていました。

参考文献 『大江町誌通史編下巻』1984