胸壁(きょうへき)跡・礎石跡

  胸壁は地元では「お台場」とも呼ばれています。その規模は街道沿いに約70メートル、幅12〜18メートルを測ります。街道西側からのびる自然丘陵を階段状に5段の平坦面を削り出し、それぞれの平坦面の街道側には、高さ40センチ程度の土塁が作られています。道と最上段の平坦面の高低差は20メートルを越え、「胸壁」の入口には枡形に築かれた土塁が、また、道をはさんで対面の平地には、小規模な建物跡と思われる礎石が残されています。
 
 この胸壁は、幕末期に通行人を改める番所、あるいは砦のような防御機能をもつ施設として築かれたものと考えられています。「宮津舊記」には、慶応2年(1866年)の長州南奇兵隊による備中倉敷代官所焼討事件(備中騒動)の後、宮津藩は久美浜代官所警護の任にあたり、あわせて藩領内の不穏分子の侵入を防ぐため大内、岩屋(関所のみ)、与謝、普甲、栗田の各峠に築いたと記されています。
 各胸壁の設計は山中甚太兵衛、8月から10月にかけて大内峠から順次、工事が行われ、関所には士分一人、足軽二人が常駐して警固にあたったようです。

参考文献
 『宮津府志・宮津舊記』世界聖典刊行協会1979
 『大江町誌通史編上巻』大江町1983
 『平成13年 広報みやづ 3月号』宮津市総務課2001
 『宮津エコツアーガイドブック』宮津市エコツーリズム推進協議会2010
       
             胸壁の前に残る礎石跡
 
胸壁入口
 
胸壁の前には石畳が続きます