河守のクランク(枡形)

 河守の街は、近世宮津藩の宿場町として栄えてきました。しかし、よく見るとその町並みは、一本道の旧道沿いに短冊状の地割がひろがるとともに、途中に鍵形に曲がったクランクがあり、見通しの悪さが街道沿いに残ります。宿場町というより城下町としての機能が残されているようです。
 
 河守の町の西側山頂には、現在、河守城という中世の山城跡が残っています。河守城は山頂から東へのびる尾根筋を削平して数段の曲輪をつくり、その両側に帯曲輪をしつらえて防備としています。

 地元資料「新治家系譜」によると、新治蔵之佐利照が山名氏の丹後攻めのとき、峰山の新治郷から逃れてこの河守城を築いたとあり、初代城主利照は明徳二年(1391)に没し、以後、七代目の則広が細川勢に攻められ落城(天正年間)するまで、七代約200年間、新治氏の居城になっていたことになっています。河守城落城後は、物部より上原福寿軒が河守城へ入り、天正十一年(1583)には、細川忠興が河守福寿新城(河守城か?)で能を演じたという記録(『丹後細川能番組』永青文庫」もあります。

 河守城と麓の河守の町並みとの位置関係をみると、河守城に対して平行に一本道が南北方向に走り、一本道の両側に短冊状の地割が広がっているのがわかります。この一本道はまっすぐではなく、途中「く」の字状に曲がる箇所が確認できるほか、クランク状の曲がりを有する場所も確認できます。現状では、このクランクは斜め方向に曲がっていますが、地籍図よると、かつてはほぼ直角に近い形で曲がっていたことがわかっています。寺院は山裾に四箇所確認でき、このうち確実に中世まで遡ることのできる寺院は清園寺、浄仙寺であり、浄仙寺は河守城城主新治氏の菩提寺として応永十一年(1404)に開創された寺院です。また、麓の町並みの中では現在は清水町と呼ばれている地区がありますが、別名を殿町といいます。こういった諸条件を加味した上で、近隣の加悦安良山城や但馬八木城などの城下町事例と比較検討してみると、河守の町並みは河守城の麓に広がる横町タイプの一本街路をもつ城下町として位置付けられます。

参考文献 「福知山市文化財調査報告書第53集」
                        福知山市教育委員会2007   
 
 
河守城遠景

河守城と河守町並み位置関係図(区画整理前)
 
現在のクランク(区画整理後)

区画整理前のクランク