普甲寺と布甲神社

 ○普甲寺
 普甲山中腹の寺屋敷には、かつて普甲寺という大寺が存在しました。

  この寺がどれほどの規模であり伽藍であったかは一切明らかではありませんが、古老たちの伝承では一山六十余ヶ寺、あるいは百ヶ寺ともいい、中世には南の紀州高野山に対して、北の高野山とまで喧伝されたともいわれた盛時があったといいます。
 安土桃山時代に火災にあったとされ、現在は普賢堂、弁財天の小祠、若干の礎石が存在するにすぎません。

 鳥羽院政期にあたる天養元年(1144年)橘忠兼が編纂した、我が国最初の国語辞典とされる『伊呂波字類従』の「諸寺」にも、「普甲寺」の項目があり、これによると、同時は延喜年中に建立されたと記されています。また、鎌倉中期成立の有職故実書『拾芥抄』には、普甲寺の本願を美世上人とし、普甲寺は10世紀初頭に美世上人が建立した寺となっています。しかし、美世上人の生没年、詳細な事績も不明確で、普甲寺創建の経緯も知ることができません。『沙石集』には、極楽往生・聖衆の来迎を祈る上人の記事があります。
 
○布甲神社
 「天之吹男命」もしくは「大直毘之命」を祭神として、普甲山に祀られたと伝えられる延喜式内社であるが、その跡地は不明です。
 
 同神社は宮津市字小田の富久能神社(日吉神社)に比定する考えもあります。ただ、普甲山付近に式内社が存在したことは、険しい山道である大江山越が、古代にさかのぼる理由の一つになるものと考えられます。

参考文献 『宮津市史通史編上巻』2002
       『上宮津村史』1976
 
  
普甲寺跡へ
 
普甲寺跡近景
 
普甲寺跡に残る普賢堂
 
普賢堂周辺に残る礎石