古代の山陰道は京都の大枝(老の坂)から西に進み、亀岡盆地、篠山盆地を通り、氷上郡(兵庫県)を北上して但馬国へ、そして山陰の国々に向かっていました。一方、丹後国へは、氷上郡で山陰道から分岐してて福知山へ入り、与謝峠を越えて加悦谷(与謝野町)から丹後国府(宮津市)に至る丹後支路がありました。

 国の官道と呼べるこの丹後支路とは別に、福知山市大江町の河守〜内宮〜毛原、宮津市の辛皮〜寺屋敷〜金山を経て丹後国府へ至る道があり、毛原〜金山間は「元普甲道」と呼ばれています。
 元普甲道は、江戸時代に今普甲道(宮津街道)が整備されるまで、古代から中世における大江山越えの主要街道であったと考えられ、有名な説話集である今昔物語集には、この元普甲道での出来事をテーマとした説話がいくつか収められています。また、途中、寺屋敷には北の高野山とも喧伝された「普甲寺」があり、元普甲道はこの寺への参詣道も兼ねていたとも考えられます。


 
元普甲道と呼ばれる毛原から金山までの、約9キロの道のりは毛原峠と茶屋ヶ成の2つの峠を越える道のりであり、要所要所には見事な石畳が残ります。

 昭和50年頃までは地元の人々が利用していたようですが、上宮津小学校辛皮分校が休校となってからは、利用者もなくなり、雑木や雑草が繁茂して通行できない状態となっていました。
 こうした中、「この歴史ある街道を復活させたい」と、地元上宮津の住民で組織する上宮津21夢会議の皆さんが平成16年から道の整備を進められ、このほど金山〜辛皮間が通行できるようになりました。道中には、石畳が残っており、当時の面影が感じられます。

元普甲道

今普甲道(宮津街道)

今普甲道(仏性寺付近)

今普甲道(普甲峠〜中の茶屋間)

古代山陰道・丹後支路・元普甲道

元普甲道

 現在、「宮津街道」と呼ばれる大江山普甲峠(不甲峠ともいう)越えの道は、かつて宮津藩主の参勤交代や西国三十三所巡礼の28番札所成相寺への略打ち巡礼道として宮津〜河守〜福知山を結ぶ江戸時代の主要街道でした。

 福知山市大江町の毛原で元普甲道と分かれる街道は、仏性寺を通り、宮津市の中の茶屋、普甲峠、岩戸を経て宮津の町に入ります。この道は江戸時代初期に時の宮津藩主京極高弘が従来の元普甲道を往来険阻として新たに開削した道であり、「今普甲道」と呼ばれます。高弘はこの道を公路と定め、峠の頂上を「不甲は不孝、不幸に通じる」として、「千歳峰(ちとせのみね)」と改名しました。また、高弘は行人のために峠道付近に官営の御茶屋も設け、現在でも「一杯水」「茶屋跡」「新兵衛屋敷」(番所の跡か)などが残ります。幕末の動乱期には、宮津藩主の本庄宗秀が老中という要職であったこともあり、宮津城下へ怪しいものを入れぬため、胸壁(きょうへき)と呼ばれる関所?も設けられていました。


 
 明治時代以降も地域住民の往来や物資の流通になくてはならない道でありましたが、1939年(昭和14年)には普甲峠越えの車道(現在の府道9号線に相当)が開通して主役の座を奪われました。しかし、それ以降も地元の生活道路として昭和中頃まで利用されてきました。
 近年、利用が途絶え、草に埋もれていた古道が、宮津市や地元の人々の手によって刈り払いや整備が行われ、往時の姿がよみがえり、通行できるようになりました。道中には、石畳、茶屋跡、道造りの供養塔や手水鉢などの遺物も残り、当時の面影が感じられる貴重な交通遺跡です。



参考文献 『大江町誌通史編上巻』大江町1983
       『平成13年 広報みやづ 3月号』宮津市総務課2001
       『おおえふるさと学』大江町・大江町教育委員会2002
       『宮津エコツアーガイドブック』宮津市エコツーリズム推進協議会2010

今普甲道
普甲峠付近