○仏性寺鉱山(福知山市大江町仏性寺)
 大江町仏性寺及谷を千メートルばかり登った山中にあった小規模な鉱山である。水鉛採掘坑4、銅採掘坑1があったが坑口の崩壊が進み、現在では坑口を確認することは困難である。

・沿 革
 昭和8年(1933)、仏性寺の岩間源蔵が輝水鉛鉱の露頭を発見したのに始まる。翌年、手掘りでの操業を開始し、同11年から本格的な採掘を行った。同17年には、浮遊選鉱場が設置されたので従業員15〜20人であったが、その生産能力は一挙に月産5dとなったという。製品は25kgを袋詰めにして 、集荷場までの約1qの山道をすべて人力で搬出したのであった。
 水鉛(モリブデン)は工作機械や兵器生産に欠かすことの出来ない特殊鋼の原料であった。第2次世界大戦遂行のための重要資源として脚光をあびたのである。したがって鉱山も従業員も特別に優遇されたという。昭和19年の夏、選鉱場が過失によって焼失したときも、軍の命令で急遽復旧が行われ、同年12月には早くも運転を再開した程であった。昭和20年、終戦を迎えると同時に閉山となった。

・地質、鉱床
 水鉛鉱床は東西に走り、鉱脈は十数条あったが幅は2〜10pと狭く、輝水鉛鉱は、石英脈の両側 あるいは石英と母岩との境に0.3〜1pの幅をもって集まっていた。
 銅鉱床は輝水鉛鉱鉱床の上方150m付近の粘板岩と蛇紋岩との接触部に存在しており、鉱脈付近では、蛇紋岩は変質して粘土鉱物の滑石や絹雲母などを生じ、粘板岩は珪化作用が一層進んでほとんど白色となっている。銅鉱脈はただ一条であるが酸化作用が進んでいるため輝銅鉱、赤銅鉱、孔雀石など二次的生成にかかる鉱物が大半を占める。

・産出鉱物
 自然銅・輝水鉛鉱・水鉛華・輝銅鉱・磁硫鉄鉱・黄銅鉱・硫砒鉄鋼・赤銅鉱・石英・孔雀石・滑石・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・方解石
   

大江山鉱山跡

○大江山鉱山(与謝郡与謝野町)
 昭和9年(1938)頃、昭和鉱業の社長森矗昶はニッケル精錬に非常な熱意を持ち、大阪鉱山局技師をしていた小田豊作(のちの大江山鉱山長)を起用して蛇紋岩地帯を歩き回った結果、大江山連峰全山がほとんど珪酸ニッケル鉱で、その埋蔵量は数十億d、含有成分は鉄20ないし25%、ニッケル0.6ないし0.7%ということで貧鉱ではあるが、選鉱その他貧鉱処理法が研究されれば国内屈指の宝庫であることを発見した。
 そこで昭和9年9月頃、大江山ニッケル鉱業株式会社を創立し、昭和14年(1939)に大江山の鉱土を七尾セメント工場に送り、試験的に精錬した結果、立派な含ニッケル粒鉄ができた。
 昭和15年(1940)には陸軍省の強い要請により、岩滝に精錬所を完成、操業を開始した。昭和18年(1943)年には大江山鉱山に連合軍の捕虜や連行された中国人を多数入れ、また、従業員の住宅ができ、金屋一帯は時ならぬ、にぎわいを極めたが、終戦とともに操業が中止された。(加悦町誌より)
 

河守鉱山跡

仏性寺鉱山跡

北原鉄滓散布地

東山鉱山跡

北原鉄滓散布地付近

○北原鉄滓散布地(福知山市大江町北原)
 大江山の中腹、北原の奥平には古く製鉄が行われていたという伝承が残る。
 地元古老の語るところによれば、この地でタタラの炎が夜空を焦がしたので、土地の人々はここを「魔の谷」と恐れ、ここを今に「魔谷」と呼んでいる。近くには千人塚という墓があり、タタラで働いた人を葬ったところという。
 このタタラで鉄をとっていたのが、一体いつごろなのか決め手がなく、その開始時期は未だ謎だが、今でも付近から鉄滓が表採できる。
 この鉄滓の成分を分析したところ、原料は砂鉄ではなく鉄鉱石であり、二酸化チタンの含有が10%と非常に高く、鉄の品位は41%と低いものであった。
 

*参考資料 1974 加悦町誌(加悦町役場)
         1983 大江町誌(大江町)
         1987 大江の文化財(大江町教育委員会)
         2002 大江ふるさと学(大江町・大江町教育委員会)

大江山周辺鉱山跡

大江山鉱山跡(与謝郡与謝野町)

○東山鉱山(福知山市大江町橋谷)
 大江町橋谷の谷深い雲原川左岸にある。大阪の人、鈴木九兵衛が昭和8年に採鉱許可を得て前後三回ほどにわたって試堀を行っている。最後の採掘は事務所なども設けて力を入れたので、坑道は雲原川の下をくぐって対岸にまで達しているというが、埋蔵量も少なかったので一年ほどで中止した。

・産出鉱物 方鉛鉱・閃亜鉛鉱・金銀鉱

大江山周辺の鉱山

仏性寺鉱山跡