鉱山の町から鬼の町へ

 約40年にわたり、大江町内唯一の大企業として、また、町内最大の「鉱山区」を構成してきた河守鉱山の閉山が決まったことは大江町にとって大きな痛手であった。
 

参考資料 1984 大江町誌通史編下巻(大江町)
       2005 新市移行記念誌「大江伝」(大江町)

酒呑童子の里

京都府大江山青少年グリーンロッジ

鬼瓦工房

大江山平成の大鬼

日本の鬼の交流博物館

青海波唐破風門

 鉱山の閉山は、税収の減収もさることながら、むしろその他の所にも大きな影響を及ぼした。鉱山の従業員やその家族が転出することにより、保育園の鉱山分園がなくなり、地理的に統合が困難な物成校の児童も半分以下になり、中学生31名、高校生25名も転出を免れなかった。

 休山が発表された昭和43年(1968)9月現在の鉱山の現況は、世帯数112世帯、人口447名、従業員数150名(うち町内就労者数36名)、保育園児21名、小学生56名(物成小学校全体94名→昭和52年美鈴小学校へ統合)、中学生31名、高校生25名であった。
 そこからの税収は、鉱物産税約300万円、従業員の町民税約100万円、鉱業機械などの固定資産税約90万円、企業としての法人税約200万円、合計700万円である。当時、大江町の町税総額は約5,000万円であり、その15%を占める金額であった。

休山が決まってから町では町議会、町教育委員会などと協議を重ね、休山後の対策が進められた。
 具体的な事項は
 @町内から鉱山へ勤めていた人たちの失職防止
 A休山により維持が困難化するとみられる道路の保全
 B鉱害の防止
 C町収入減の補てん
 D物成校規模低下への措置
 E鉱山地域周辺のさびれを救うための公的施設の誘致や観光対策
などであり、中でも、町の“さびれ”を何とか最小限に食い止めたいというのが大きな目標であった。そこで、最も力をいれたのが鉱山一帯の有効利用であった。

 昭和48年(1973)の閉山直後には「京都府立青少年山の家」が開設され、林間学校やハイキングなど、動植物の宝庫といわれる大江山を活用する拠点となった。その後、全国的に有名な酒呑童子伝説が残されていることから「鬼」をイメージしたまちづくりに取り組み、旧河守鉱山一帯を「酒呑童子の里」と命名し、毎年ここを会場として大江山酒呑童子祭りを開催した。
 平成5年には全国でも珍しい鬼をテーマとする「日本の鬼の交流博物館」がオープンし、平成6年には「京都府大江山青少年グリーンロッジ」と「大江山平成の大鬼」「青海波唐破風門」が完成し、鉱山の町から自然と鬼伝説が残るロマンの里へと姿を変えたのである。